加藤民吉と天中和尚(「あやめ」9月号より)〜せともの祭りにちなんで
- 公開日
- 2014/09/13
- 更新日
- 2014/09/13
校長室から
今日・明日と,瀬戸川沿いの中心市街地をメイン会場にして,「せともの祭り」が開催されます。今年のせともの祭りの天気は良さそうです。せともの祭りにちなんで,学校だより「あやめ」9月号に掲載した,「加藤民吉と天中和尚」のお話をアップします。
「せともの祭りは,磁祖・加藤民吉の偉業をたたえるお祭りです。江戸時代,瀬戸の焼き物は,九州で多く作られるようになった『磁器』という新しい焼き物に販路を奪われ,苦境の最中にありました。瀬戸では伝統的に『陶器』を作ってきたのですが,白くて丈夫で色鮮やかな『磁器』を作る技術はありませんでした。そのため,九州に行き,その技法を学ぶ必要がありました。その白羽の矢が当たったのが加藤民吉でした。
瀬戸の多くの人は,民吉は佐賀県の有田で修業したと思っているかもしれませんが,実際には有田で修業はしていません。有田をかかえる鍋島藩は,当時,藩の貴重な収入源である有田焼の製法が外部に漏れることを,厳しく取り締まっていました。有田から逃げ出した職人が死罪になるほどでした。たとえ民吉に尾張徳川家のバックアップがあったとしても,ライバル産地の職人に技術を教えるということはあり得ない話でした。
民吉が磁器の製法を修業したのは,熊本県の天草と長崎県の佐々(さざ)です。瀬戸からはるばる九州まで出向いた民吉とそれらの窯元との仲立ちをしたのが,菱野村出身の天中和尚(てんちゅうおしょう)でした。天中和尚は,菱野村字新田(現在の新田町)で生まれ,14歳の頃,名古屋の禅寺で出家しました。その後,兵庫県のお寺の住職などを経て,当時,天草の東向寺の住職を務めていました。
九州に着いた民吉は,最初に,天草の東向寺を訪ねます。天中和尚は,民吉の申し出を聞き入れ,天草の窯元に『瀬戸から来た民吉を修業させてほしい』と依頼します。こうして,民吉の九州での修業が始まるのです。
民吉は,はじめ天草の窯元で修業していましたが,より本場の有田に近い窯元での修業を望むようになります。民吉から相談を受け,その思いをかなえたのも天中和尚でした。天中和尚が長崎県の佐世保のお寺の住職に仲立ちを頼んで実現したのが,佐々での修業です。佐々で民吉は,釉薬の調合や窯の焼成の方法などを学んだといわれています。
天中和尚の助けがなければ,民吉が九州で修業することはできなかったかもしれません。そうであれば,瀬戸で焼き物作りが復興することもなかったでしょう。天中和尚は,その後,長崎市の格式高いお寺の住職に就任し,73歳で生涯を終えました。」
幡山中学校の生徒たちに,ぜひ郷土の先人・天中和尚のことを知ってほしいと思います。そして,歴史の勉強を身近に感じてほしいと思います。