全校集会
- 公開日
- 2015/09/07
- 更新日
- 2015/09/07
校長室から
9月7日(月)の朝,2学期最初の全校集会を行いました。
はじめに,5日のソフトテニスの大会で,3位に入賞したT・Y君とG・Y君のペアの伝達表彰をしました。
校長講話では,今週末のせともの祭りにちなんで,以下のような話をしました。
「今週末に,瀬戸の中心部では『せともの祭り』が開催されます。『せともの』は『陶磁器』とも呼ばれます。陶磁器は,『陶器』と『磁器』を合わせた言葉です。(右下の写真の左側が陶器,右側が磁器です)
磁器は陶器よりも薄くて丈夫で白く,鮮やかで繊細な絵をつけることができます。瀬戸では伝統的に陶器を作ってきたのですが,磁器が有田を中心とした九州で作られるようになると,瀬戸の焼き物産業が衰退していきました。そのため,瀬戸でも磁器を作らなくてはならなくなります。しかし,何度やっても九州で作られるような磁器ができませんでした。どうしても九州に行って,その技法を学んでくるしか方法がありませんでした。その白羽の矢が当たったのが加藤民吉でした。
民吉は佐賀県の有田で修業したと思われているかもしれませんが,実際には有田では修業をしていません。有田をかかえる藩が,藩の貴重な収入源である有田焼の製法が外部に漏れることを厳しく取り締まっていました。民吉が磁器の製法を修業したのは,熊本県の天草と長崎県の佐々(さざ)ということころです。
瀬戸からはるばる九州まで出向いた民吉と現地の窯元との仲立ちをしたのが,菱野村出身の天中和尚(てんちゅうおしょう)でした。天中和尚は,菱野村字新田(現在の新田町)で生まれました。14歳で出家し,当時,天草のお寺の住職を務めていました。天中和尚は,民吉の申し出を聞き入れ,それが実現するように力を尽くしました。天中和尚の助けがあって初めて,民吉は九州で修業ができたのです。
民吉は,九州から持ち帰った磁器製法の技術を瀬戸で広め,瀬戸の焼き物産業を再び盛んにしました。せともの祭りは,『磁祖』としてあがめられるようになった民吉をたたえるお祭りです。民吉の偉業のかげに,幡山地区出身の偉大な先人の功績があったということをおぼえておいてください。」