昭和18年の国語の教科書「稲むらの火」
- 公開日
- 2011/03/23
- 更新日
- 2011/03/20
はたとうの風
「稲むらの火」
「これは、ただごとではない。」
とつぶやきながら、五平衛は家から出てきた。今の地震は、別に激しいというほどではなかった。しかし、長い、ゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、年取った五平衛に、今まで経験したことのない、不気味なものであった。
五平衛は、自分の家の庭から、心配そうに下の村を見おろした。村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には、一向気がつかないもののようである。
村から海へ移した五平衛の目は、たちまちそこへ吸いけられてしまった。風とは反対に、波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や、黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五平衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう、一刻もぐずぐずしてはいられない。
「よし」
と叫んで、家へかけ込んだ五平衛は、大きなたいまつを持ってとび出して来た。そこには、取り入れるばかりになっている、たくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」
と、五平衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱっとあがった。一つまた一つ。五平衛はむちゅうで走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、たいまつを捨てた。まるで、失神したように、かれはそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は、天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ」
と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子どもも、若者のあとを追うようにかけ出した。
高台から見おろしている五平衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思われた。やっと20人ほどの若者がかけあがって来た。かれらは、すぐに火を消しにかかろうとする。五平衛は、大声で言った。
「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」
村中の人は、おいおい集まって来た。五平衛は、あとからあとからのぼって来る老幼男女を、一人一人数えた。集まって来た人々は、燃えている稲むらと五平衛の顔とを代わる代わる見くらべた。
その時、五平衛は、力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やって来たぞ。」
たそがれの薄明かりをすかして、五平衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。
その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ。」
と、だれかが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前にせまったと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとで、壁にぶつかった。人々は、われを忘れて後ろへとびのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙のほかは、一時なにもみえなかった。
人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る、白い、恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を、海は進みまた退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見おろしていた。
稲むらの火は、風にあふられてまたもえあがり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めてわれにかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、ただだまって、五平衛の前にひざまづいてしまった。